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第 六十五 段(在原なりける男)
- むかし、おほやけおぼしてつかう給ふ女の、色ゆるされたるありけり。大御息所とていますがりけるいとこなりけり。殿上にさぶらひける在原なりける男の、まだいと若かりけるを、この女あひ知りたりけり。男、女方ゆるされたりければ、女のある所に来てむかひをりければ、女、「いとかたはなり。身も滅ぶなむ。かくなせそ」といひければ、
思ふには忍ぶることぞ負けにける
逢ふにしかへばさもあらばあれ
といひて、曹司におり給へれば、例の、このみ曹司には、人の見るをも知でのぼりゐければ、この女思ひわびて里へゆく。されば、何の、よきこととて思ひて、いき通ひければ、みな人聞きてわらひけり。つとめて主殿司の見るに、沓はとりて奥になげ入れてのぼりぬ。かくかたはにしつゝありわたるに、身もいたづらになりぬべければつひに滅びぬべしとて、この男、「いかにせむ。我がかゝる心やめ給へ」とてほとけ神にも申しけれど、いやまさりにのみ覚えつつ、なほわりなく恋しうのみ覚えければ、陰陽師、巫よびて、恋せじといふ祓の具してなむいきける。祓へけるまゝに、いとど悲しきこと数まさりて、ありしよりけに恋しくのみ覚えければ、
恋せじと御手洗川にせしみそぎ
神はうけずもなりにけるかな
といひてなむ往にける。
この帝は顔かたちよくおはしまして、仏の御名を、御心に入れて、御声はいと尊くて申し給ふを聞きて、女はいたう泣きけり。「かゝる君に仕うまつらで、宿世つたなく悲しきこと、この男にほだされて」とてなむ泣きにける。
かゝるほどに帝聞しめして、この男をば流しつかはしてければ、この女のいとこの御息所、女をばまかでさせて、蔵に籠めてしをり給うければ、蔵に籠りて泣く。
あまの刈る藻にすむ虫の我からと
音をこそなかめ世をばうらみじ
と泣きれば、この男、人の国より夜ごとに来つゝ、笛をいとおもしろく吹きて、声はをかしうてぞ、あはれにうたひける。かゝれば、この女は蔵に籠りながら、それにぞあなるとは聞けど、あひ見るべきにもあらでなむありける。
さりともと思ふらむこそ悲しけれ
あるにもあらぬ身を知らずして
と思ひをり。男は女しあはねば、かくしありきつゝ人の国にありきてかくうたふ。
いたづらに行きては来ぬるものゆゑに
見まくほしさにいざなはれつゝ
水尾の御時なるべし。大御息所も染殿の后なり。五条の后とも。
あなたを慕う思いには、耐え忍ぶ心が負けてしまったのです
あなたにお逢いするのと交換に、二人の身の破滅も構いません
もう恋はしないと、御手洗川でしたみそぎを
神は受けては下さらなかったよ、こんなに恋しいから
海人の刈る、藻に住む虫のワラカレのように、我からしたことを
声を出して泣くことはしても、あの人との仲は決して恨みません
それでもきっと逢えるだろうと、あの人が思っているのが、とても悲しいのです
あってもなくても同じ様な、私の境遇を知らないで
空しく、行っては帰ってくるものなのに
ただ逢いたいと思う気持ちに、連れ添われて
語 句
現代語訳