ガロアのプロフィール


 エバリエスト・ガロア。フランスの独創的数学者。1811〜32。



 パリ南部郊外のブ―ル・ラ・レ―ヌ村


に生まれる。父親は詩作もする教養人で、かつ専制を憎みガロアはこれを受け継いだ。法律家の家系の母親は、古典文学や宗教をたたき込まれた、独創的で、厳しい探究心と強い性格の女性であった。
 ガロアは12歳でルイ・ル・グラン高等中学校(リセ)に入学したが、そこは世界の縮図即ち専制のはびこる世界であった。この体験と母親ゆずりの性格が、彼の一生を方向づけた。つまり正義感と公正感である。そして数学の才能が始動し始めた13歳頃には、得意の古典も文学にも飽きてきて、能なし教師から見れば不良のように映った。
 天才ガロアは落第した。学校の数学は程度の低いものだったため、ガロアは自分で本を選んだ。それは当時の一流の独創的な数学者ルジャンドルの幾何学の本だった。彼は幾何学という小説を読んで楽しんでいた。そして当時の大数学者のラグランジュの代数学やア―ベルの論文を直接学んだ。だが数学の天才の学校での数学の判定は「並」だった。天才を評価できない「並」の教師がおしつけてきた知識や常識のゴリ押しに耐え切れなくなったガロアは爆発した。
 16歳でエコ―ル・ポリテクニクを受験したが、ここでも「知の受験者が、無知の試験官」に不合格にされ、母校の高等数学のクラスに入った。ここで担任の高等数学の教授リシャ―ルに出会い、大きな影響を受ける。そんな評価のガロアの才能の開花を期待してくれる先生に出会ったのである。巨額の教育投資より、たった一人の優れた教師が、天才を育てるのであろう。
 1829年3月、ガロアは最初の論文を発表した。またパリ科学アカデミ―に『方程式論』を提出したが、審査官のコ―シ―が論文を紛失して行方不明となってしまう。そして同年7月、故郷で町長をしていた父親が自殺するという不幸が続いた。更に再挑戦したエコ―ル・ポリテクニクの試験も不合格になり、翌30年2月教師予備校に入学した。
 1830年4月に一つの論文、6月に二つの論文を書いた。7月、パリに革命が起るとこれに参加している。パリ科学アカデミ―に提出した「群」の論文は、それを持ち帰った審査担当のフ―リエが死亡して再度紛失してしまった。不幸は続く。31年1月、エコ―ル・ノルマルと改名した予備校から追放されてしまったガロアの言動は急に過激になる。5月9日に裁判の勝利を祝う集会での言動がもとで逮捕されるが、3ケ月後に無罪になる。7月のデモで先頭のガロアは新橋で逮捕され、半年の実刑判決を受ける。
 12月にサント・ペラジ刑務所に投獄されたが、翌32年3月パリにコレラが流行したために仮出獄になった。
 しかしすぐに最大の悲劇はやってきた。5月30日、決闘によってガロアはピストルで腹を撃たれ、そのまま放置された。 翌日10時に死亡。
 決闘の前夜に急いで書いた、友人シュバリエ宛ての大判ノ―ト4枚8ペ―ジの遺書は、ガロアの数学を伝える貴重な文献だった。この遺書は約40年後にジョルダンが判読し『置換論(1870)』を著して、ようやくガロアの思想が注目されるようになったのである。


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