むかし、紀有常といふ人ありけり。三代の帝に仕うまつりて時にあひけれど、のちは世かはり時うつりにければ、世の常の人のごともあらず。人がらは心うつくしく、あてはかなることを好みて、こと人にもにず。貧しくへても、なほ昔よかりし時の心ながら、世の常のこともしらず。としごろあひなれたる妻、やうやうとこ離れて、つひに尼になりて、姉のさきだちてなりたるところへ行くを、男まことにむつまじきことこそなかりけれ、いまはとゆくをいとあはれと思ひけれど、貧しければ、するわざもなかりけり。思ひわびて、ねむごろにあひ語らひける友だちのもとに、「かうかう今はとてまかるを、何事もいさゝかなることもえせで、つかはすこと」と書きて、おくに、
手を折りてあひ見しことを数ふれば
十といひつゝ四つはへにけり
かの友だちこれを見て、いとあはれと思ひて、夜のものまでおくりてよめる。
年だにも十とて四つは経にけるを
いくたび君を頼み来ぬらむ
かくいひやりたりければ、
これやこの天の羽衣むべしこそ
君が御衣と奉りけれ
よろこびに堪へで、又、
秋や来る露やまがふと思ふまで
あるは涙の降るにぞありける
指を折って共に暮らした年月を数えてみると
十が四回の四十年も経っているのです
年を数えても四十年もの月日を共にすごしたのだから
彼女は何度もあなたを頼りにしてきたのでしょう
これがあの、天の羽衣というものだろうか
あなたがお召し物として、お召しになったものなのですね
秋が来て、露と見間違えるほどに
袖も濡れているのは、うれし涙が降り注ぐからなのです
語 句
現代語訳