第 125 段


解説

 業平は、八八〇年五月二十八日、五十六歳で亡くなった。官位は近衛府の中将で、収入先は相模と美濃の権守からあったから、生活には困らなかったのであろう。
       
「 大和物語 第百六十五段
 水尾の帝の御時、左大弁のむすめ、弁の御息所とていますかりけるを、帝御ぐしをおろしたまうてのちひとりいますかりけるを、在中将しのびて通ひけり。中将、病いとおもくしてわづらひけるを、もとの妻どももあり、これはいとしのびてあることなれば、えいきもとぶらひたまはず、しのびしのびになむとぶらひけること日々にありけり。さるに、とはぬ日なむありけるに、病もいとおもりて、その日になりにけり。中将のもとより、
 つれづれといとどの心のわびしきに
  けふはとはずて暮してむとや

とておこせたり。「よはくなりにたり」とて、いといたく泣きさわぎて、返りごとなどもせむとするほどに、「死にけり」と聞きて、いといみじかりけり。死なむとすること、今々となりてよみたりける。
 つひにゆく道とはかねて聞きしかど
  きのふけふとは思はざりしを

とよみてなむ絶えはてける。       」

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